うどんこのお雑煮

映画とか読書とかジャグリング。

RE: マイヤーさんへ、あるいは模倣とは何か?

前回の記事「ドメスティックなパフォーマンスについて」に学生のマイヤーさんから返信が来た!学生さん忙しい(よね?)のにわざわざありがとうございます。ありがたいことに長文で返して頂いています。以下一部を引用。全文見たい人は前回の記事を読んでね。

ジャグラーは真似をすることに厳しい、ということです
技術、技の模倣にはまだ寛容ですがアイディア、ネタの模倣、特にルーティンの模倣に関しては相当厳しいと感じます
見える範囲が広がったことで見られる範囲も広がり、結果としてルーティンの模倣に関しては閉鎖的空間で村八分に合う可能性もあると考えるとみんな敬遠するのでしょう。それもあって大会は誰も使ったことのない曲を、と意識する人が増えたようにも感じます
その中でドメスティックなパフォーマンスは真似をしやすいのだと思います
なぜならほとんどが理解していないから。
みんな同じことをするので各々のパフォーマンスの差と呼べるものは技術のみになり、しかし技術が似通っていても誰も文句は言わないのです
だから真似をしやすい

その辺が昨今の学生ジャグラーはドメスティックであることなのかなと感じました。

 真似をすることに厳しい、というのはそうだと思う。ただ、ジャグラーに限ったことじゃなくて、模倣はほぼ全ての表現で嫌われるだろう。模倣の仕方を間違うと。

模倣=パクリというニュアンスで考えている人が結構いると思うけど、僕はちょっと違うと思う。音楽の世界に"カバー"というのがある。同じ歌を違うシンガーが歌うというアレって良いカバーと悪いカバーがある。その違いは何か?

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これはカバーアルバム"宇多田ヒカルのうた"というアルバムに収録されている浜崎あゆみによる宇多田ヒカルのカバーだ。パッと聞くと普通のカバーに聞こえるかもしれないがよく聞いてほしい。バックにかなり細かい所までコーラスがかかっていて、それが全て浜崎あゆみなのだ。ちなみにこの曲はこのアルバムのベストトラックにリスナーから選ばれることが多いらしい。浜崎あゆみはコーラスは別のボーカルに任せることが多いのだが、なんでこんな面倒くさいことをしているのだろう?

これは元ネタの宇多田ヒカルの特徴を踏まえている。「作品から聞こえてくる歌声は全て本人のもの」ということこそ宇多田ヒカルの特徴である、と浜崎あゆみが解釈したのだ。当然その解釈の帰結としてはコーラスは全て浜崎あゆみでなくてはならないということになる。だからそうしているのだ。

(ということをこの本で知った。興味ある人はめっちゃ面白いので読んでみてね。) 

1998年の宇多田ヒカル (新潮新書)

1998年の宇多田ヒカル (新潮新書)

 

 

模倣というのは作品への解釈と、自分なりの再構築だ。解釈が存在しない、解釈が大きく誤っている、自分なりの再構築が存在しない。これらは全て単なるパクリといって差し支えない。また、"自分なりの再構築"というのは自ら意図して入れるものではなく、それは元ネタへの愛着故にどうしても入ってしまうものだと僕は思う。従って、自分なりの再構築が存在しない、あるいは足りない時というのは、愛着が足りないときだと言える。模倣したものを見た時に僕が"ひどい"と感じた時は、それは模倣していること自体が悪いのではなく模倣が足らないから感じるのだ。

ドメスティックなパフォーマンスは確かにパクリやすいかもしれない。これは僕自身がドメスティックなパフォーマンスができないからよくわからないのだが、多分、解釈が容易なのだと思う。皆それぞれ内向的気質を持っている。それをそのまま舞台にぶちまければいい。そう思う。しかし再構築となると相当に難しい。自分のジャグリングへの愛着の程度が露見してしまうからだ。「えっ、その程度の技術で本質と向き合っているとか思っちゃうワケ?」と言われるリスクを常に負っていると言っていいと思う。(でも30のおっちゃんになると、逆にそれが若々しくていいんだけどね。)

社会人になると、"そういう道"を選んだ人以外は技術を磨く時間が、ジャグリングの本質と向き合う時間が取れなくなっていく。ジャグリングの技術以外の表現ができない人にとってはこれはジャグリングのパフォーマンスをやめるのに十分な理由になりうる。ジャグリングのパフォーマンスをやめてしまえば、流れでジャグリングも続けなくなるだろう。ジャグリングを長く続けたいなら、技術以外の表現技法を学んでおいたほうがいいのではないだろうか。