うどんこのお雑煮

映画とか読書とかジャグリングとか歴史。

ユーモアと共にあらんことを。

理想的な状態というものがある。あらゆる物が完全に動作する。あらゆる物が自分の想定の範囲内で動き、その為に自分は完全に安心した状態でいられる。もちろんちょっとした失敗なんかはあっても、その世界の中では全ての物が完全に協調して動くために、妙な安心感がある。

森田芳光という映画監督が作ったA列車で行こうという映画(遺作になってしまったが)は、僕が自分の中で考えている理想的な状態にかなり近い。それ故、僕はこの映画が好きだ。「色んな人がいるんですね。それはそれで、感心しました。」というやつだ。数学や物理でいうならば、中学か高校でなんかで出てくる「〜は考えないものとする」とか、理想気体という概念上の気体なんかがそうだ。

この概念上の存在は、哲学では、クラスという。(という風に僕はクラスという概念を理解している。間違っているかも!)

これに対して現実世界に実際に存在する物をインスタンスと呼ぶ。クラスとインスタンスとの間にはうんざりするほどの乖離がある。自分の人生は全く映画のようにはいかず、物事が起きる様は全然まったく数学や物理の世界の通りにはいかない。

人々はこのことを人生の中で多くの犠牲を払って身につける。ある人は親と子の間に、ある人は学生のうちに、ある人は社会に出てから。悲しいかな、クラスとインスタンスの乖離に耐えきれずに死んでしまうこともある。けれど、社会からするとそれを乗り越えてやっとまともな人という感じだろう。

ところが世の中分からないもので、そういうことが分かってない人もいる。そういう人は、自分のクラスに閉じこもっているように見える。その周囲の人のクラスとインスタンスの乖離を広げてしまうような働きを、社会ではするだろう。ソフトウェアでいうところのバグみたいな人だ。

問題は、まともな人とバグみたいな人というのは、まったく人によって異なるということだ。ある人はAはまともでBは違うと言い、またある人はAはバグっていてBは違うと言う。こうして闇が広がっていく。完全に上手くいく人生なんて無いように、これはもうどうしようもないことだ。世知辛い。。。

だからクラスとインスタンスの乖離を上手く処理するために、ユーモアというものが生まれた、と、僕は思っている。笑い飛ばす力だ。どうも日本人は(日本人しか僕は知らないけど)、このユーモアの力を過小評価している気がしてならない。

だからさ、可愛い浴衣のポイの動画がバズって、どうかしているアンチが捨て垢で罵ってくるのなんか、動画消さずに笑い飛ばしてしまえばいいのに、と僕は思ってしまったのだった。あなたは何も悪くないのだから。