うどんこのお雑煮

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ロシア史7 ロマノフ王朝最初期 1650年頃

さて前回、各界隈から御しやすいと見られたミハイル・ロマノフが1613年に即位した。さらにその父フィラレートはモスクワ総司教に就任し、親子で政治と宗教を動かすことになったが、特に目立った成果なく、ミハイル・ロマノフ1645年に死去。やはり動乱時代の傷跡が残っており、その秩序の回復に精一杯であった。

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ミハイル・ロマノフ。髭はロシアの誇り!

そのまま長男アレクセイ・ミハイロビッチが1645年、16歳で後を継ぐ。彼の治世は経済的にも宗教的にも波乱万丈であったが、彼が無能っていうよりは、側近に恵まれなかった男であったように思う。

まずは、彼のかつての家庭教師であった政府の高官ボリス・モロゾフを見ていこう。彼は典型的な会計家であったが、こういうタイプはえてして全てを数字で判断してしまい現場をよくわかっていないケースが多い。財務状況健全化のために公務員の給与を減らしたりしたのだが、その中でも塩への課税は民衆にとってかなりの不満だっただろう。それが1648年に塩一揆という大規模な一揆になってしまい、さらにモスクワ大火と呼ばれるかなり大きな火災まで起きてしまう。その責任を取らされ彼はモスクワを後にすることになった。

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生活必需品に課税してはいけない!塩一揆

さてこの一揆鎮圧のために戦ったのが士族と呼ばれる階級だった。その彼らからすれば、貴族や皇族、「力ある者」に不満を持つことは当然であろう。士族はゼムスキー・ソボールを要請し、この中で会議法典が成立した。この法典には士族たちの意向がかなり強く反映され、結果ロシアの農民はかなり不自由になってしまった。どういうことか。

ロシアの農民たちは中世においては割と自由だったようで、彼らには「秋のユーリの日」11/26の前後一週間において、移転する権利が認められていた。貴族、士族から借りている土地で農業をやるわけだが、「こりゃやっとられんばい」となったらば即移転できた。まあ借金があれば無理だったようなので、実際に移転した農民は僅かではあったようだが。
さて士族とは、ロシアにおいては「軍役を義務付けられる代わりに土地を持つことができる」という身分であったが、彼らが持つことができた土地は貴族のそれと比べて小さいものであった。自然、貴族の方がより有利な条件で農民を招くことができたので、農民の流出が起きてしまう「移転の権利」は士族にとっては大変厄介なものだった。これが会議法典で禁止となったのである。塩への課税〜塩一揆とその鎮圧の流れで「ニェット(いいえ)」とは言えなかった貴族皇族たちは移転の禁止を飲む他なかった。ロシアの農奴制の始まりである。

ところでゼムスキー・ソボールの主な構成員も士族であったが、会議法典の成立より、士族の最も大きな不満であった移転の権利がなくなったため、もはやこれを開く意味もなくなりゼムスキー・ソボールはこのあと徐々に開かれなくなっていく。貴族の力は相対的に弱くなり、アレクセイはこのとき官僚(プリカース)の数を3倍に増やし彼らを意のままに操った。アレクセイの治世でロシアの専制君主制が成ったとされている。

次に当時の宗教的な流れを見ていこう。ギリシャ正教の正統後継者を自負するロシア正教会にとって、正教会の教えを守ることはロシアにとって重要なことであったが、度重なる戦争等でポーランドからカトリックの教えが伝わったり、広い領土で土着の宗教と混ざり合ってしまったりして本来の教えからは少し違うものとなってしまっていた。さて、では「本来の教え」とはなんだろう、ということに当時の人達はぶち当たった。時は1652年。
彼らが考えた正しい教えは2つに別れた。一つは「昔の」ギリシャ正教会の教え、つまりモスクワに残されていた正教会の教科書に沿って儀式のやり方を修正するという考え方。もう一つは「現在の」ギリシャ正教会の教えで修正するという考え方。前者は指二本で十字を切るのに対し、後者は指三本で十字を切る、などの細かい違いがあった。
普通に考えたら、教科書があるのだからそれが本来の教えだと思うのだが、どうしてこのようなことが起きたのか?

実はこの時代には教科書とは別に、ギリシャ人修道士という別の模範があったのだ。彼らはギリシャからモスクワへ亡命しており、ロシアの文化的な背景から、結構な権威を持っていたのである。そしてギリシャ人修道士にはビザンツ帝国の再建という目論見があった。そんな彼らはモスクワ総主教を世界の正教会のトップにするために、モスクワ総主教ニーコンと協力し、現在の私たちの教えが正しいということとしたのである。

これには結構な反発があった。「ギリシャ人修道士が権威を持つっていったって、ビザンツ帝国がトルコに滅ぼされたのはもう200年以上前のことで、今となってはそれはトルコ式と言ってもいいんじゃないか?そのような、異教徒に汚染された教えは間違っているのでは?」というのが主だった反対理由だったが、ニコンはこれに激しい弾圧を加えた。このとき弾圧された、古い教科書を信じる人々を「古儀式派」と呼ぶ。当時のロシアの北の森には焼け落ちた小屋(ガリ)が点在したらしいが、これは古儀式派が弾圧を受け焼身自殺を図った跡だという。少数の迫害された宗教団体。このような組織は後々ヒジョーに危険な存在になることが多いが、ひとまずこの話は終わり、彼らはこのあとも歴史の影で生き続ける。

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ギリシャの坊主がなんぼのもんじゃい!二本指で十字を作るのが古儀式派である。

波乱万丈のアレクセイの治世だがまだまだ続く。