うどんこのお雑煮

映画とか読書とかジャグリングとか歴史。

幕末の話1

知ってる偉人を娘に聞いてたら、ナポレオンの名前が出てきたのでフランス革命の流れを嬉々として語っていたら、日本の革命も教えろと言われたので、明治維新の話をしなければならないハメになった。

歴史のあるポイントを語るには、まずその前後の世界の情勢を頭に入れておく必要がある。然るにこういうとき、どこから話を始めるかというところに苦慮するのだが今回は、産業革命第一次世界大戦の流れの中で、幕末という時代を語るようにしようと思う。

産業革命

で、1780年産業革命である。もうこれだけで一冊書ける勢いのあるワードだが、今回はこの結果だけに注目しよう。つまり、西欧の強烈なライジングである。特にイギリスは、1820年には世界の工業生産の半分を占めるようになった。こいつらが調子に乗ってアジアまで攻めてくる。この頃の西欧の主要な考えは「広い国土=イイ!」であり、とにかく植民地をたくさん増やす植民地政策を取っていた。アメリカ大陸あたりの植民が落ち着いてきたので、次はアジアを、というわけである。ビールはもういいから焼酎、みたいに言われても困るのだが。。。

アヘン戦争

イギリスは中国(当時は清)を使っていっぱいお金を稼ぎたい!と思ったわけだがそのためには何かを売る必要がある。さて何を売るか。そうだ!アヘンだ!というわけでインドでアヘンをいっぱいいっぱい作って流し込む。国家単位のシャブ漬け政策である。しかも清はアヘン禁止の国。これではたまらんので拳を振り上げたところを逆にリンチしたのが1840年アヘン戦争である。南京条約を締結させ、香港を取り上げ賠償金を払わせ開港させた。我が物顔で中国を占領するイギリス人、イケイケである。

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イギリスが中国にアヘンを飲ませている。凄い絵だ。。。!

これに大きな衝撃を受けた国がある。中華文明を長いことパイセンと仰いできた我が国、日本である。

その時の日本

当時日本では少しずつ、食料経済から商品経済への転換が起きてきていた。これにより商人の地位が大きくなり、身分という者があいまいになってくる。さらに長年の徳川一強体制から政治が腐敗、1837年の大塩平八郎の乱に代表されるような反乱が少しずつ発生してきており、武家社会の頂点である幕府の権力が落ちてきていた。

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大塩平八郎御大。秒で負けてしまったのだが、熱い男である。

そういう中での中国の凋落であり、徳川幕府は大変な焦燥感だっただろう。1841年、天保の改革が実行されるがこれが大失敗に終わる。もう幕府主導の改革など、どの藩も相手にしていなかったようだ。さらに同じタイミングで改革に成功する藩、雄藩*1も出てきたりして、さらにグッダグダになるのであった。この流れの中で1853年にアメリカからペリーさんが来航してくる。いやでござんす(1853)、ペリー来航。日本の命運やいかに。

 

続く。

*1:薩摩藩長州藩が代表例。

教育について② 教育の変遷と日本の教育

前回からの続き。
教育について① 教育の起源と種類 - うどんこのお雑煮
なんで日本ではトップダウン型の教育をしているのか、ということへの回答を考えたい。



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旭川学テ事件について

本筋に行く前にまず日本の教育史上で重要そうな事件を見つけたので言及する。1956年、旭川学テ事件という事件があったそうだ。
旭川学テ事件 - Wikipedia
戦後の学力調査は、元々は国ではなく地方自治体が行っていたそうだ。で、1956年に国が主体となって行うことになったのだが教師が反発。学力テストの妨害行為を行い、罪に問われた。1945年に終戦を迎え、生活が国のせいでボロボロにされたのに、その国が、たった10年後に「ヤアヤアちゃんと育っとるかね君たち」と来たのであって、まあイラッとくるのも分からんでもない。さてこの教師は妨害行為を行ったので建造物侵入罪に問われたまでは良いが、さて「公務執行妨害」に当たるのか?というのがこの事件の問いだ。まあ、現在の我々の感覚からすると普通に公務執行妨害でいいのでは、という感覚ではないだろうか。

西洋の教育の変遷

では本筋。前回は、教育にはトップダウン型とボトムアップ型があるよ~という話をした。今回はそれがどのような変遷を辿ったかを見ていく。現在の日本が西洋の教育手法を取り入れていることから、西洋の歴史を見ていく。
※TD↓(トップダウン型教育)、BU↑(ボトムアップ型教育)の略

時期 事件 教育内容 教育の主体
~5世紀 西ローマ滅亡前 キリスト教会が教義を教える 協会(TD↓)
5~10世紀 西ローマ滅亡後 滅亡の混乱の中で民間の徒弟制度による教育が行われる ギルド(BU↑)
12世紀 叙任権闘争 皇帝の正当性保護のためにボローニャにて法学研究が始まる 大学(BU↑)
14世紀 ルネッサンス ギリシャ哲学の流入キリスト教へのカウンター 大学(TD↓)
18世紀 フランス革命 啓蒙思想の流行 サロン(BU↑)
20世紀 世界大戦 ナショナリズムの発達 国家(TD↓)

物凄くざっくり、近代までの教育を俯瞰すると。
西ローマ帝国存命時、キリスト教が主体となって宗教ベースで教育していたが、これが滅びた後、混乱期に宗教ベースの教育というのが成り立たなくなり、民間の教育が発展する。人々はギルドと呼ばれる職能集団を形成し、徒弟制度で教育していた。これが拡大する形で大学になるが、元々がギルドなのでこれが自治的な空気を持つことになる。支配者層から独立した自由な内容を研究し、それがルネッサンスに繋がる。だが支配者層の権力拡大に伴い大学が徐々に支配者層に近づくに連れ腐敗、そのカウンターとしてアカデミーやサロン、つまり私塾が流行る。これが啓蒙思想フランス革命、ナポレオンの台頭と繋がり、圧倒的強さを見せつける。この「国民国家」のパワーに目をつけた国家が国民育成のために教育を行った。となる。

教育が時代の変遷に応じてトップダウン型とボトムアップ型に柔軟に変化していることがわかると思う。ただし、歴史の流れというのは未来の視点から見た我々が客観的にレッテルを貼っているだけであって、僕が思うに、その当時の人たちは、例えば、「今はボトムアップの時代だ!」とかいうことをあまり考えていなかったように思う。僕には、今現在どのような教育がベストなのかは決められない、と言ってよいように思える。

旭川学テ事件について②

旭川学テ事件は、今の我々ならあまり考えずに公務執行妨害罪、ということになるだろう。ただしこの時の裁判官は少し違った捉え方をした。つまり、もしこの事件を公務執行妨害罪だとすれば「教育が公務である」ということになる。それでいいんだっけ?と。そして、この裁判では「子供の教育を決定する権限は誰に属するのか」が問われた。この問いは、難しい。なるほど戦後の日本人は、敗戦後の絶望の中でもしっかり前を向いて考えていたのである。ここでの判決は

教育権の帰属問題は「国家の教育権」と「国民の教育権」のいずれの主張も全面的に採用できない(折衷説)

となった。トップダウン型の教育もボトムアップ型の教育も両方ともいいところも悪いところもあり、その両方を大事にしていこうという立場に感じられる。というわけで実は日本では、教育を国が行う、ということは明言されていないのである。また、このような問いは科学的に白黒つけるのが非常に難しいところではあるのだが、歴史的に見てそれほど筋が悪い回答とは僕は思わない。それに、他国がこの問いにどう解を出しているかが分からないが、う~んなんともこう、日本人らしい結論らしい結論でないところが僕は好きだ。

。。。ところでこの話は、子供に向かって「なんで君は学校へ行かないといけないか」を回答したい、というのが目的だったのだが、まだそれについて言及できていない。次回で考えていきたい。

教育について① 教育の起源と種類

娘や息子が小学生になり、学校にいかないといけないのはなぜか、たまに問われるようになってきた。泣こうが喚こうがとりあえず行かせているけど、状況によっては行かせない日もある。*1

学校に行かなくてはいけないのはなぜかという問いに、親が答えを持ってないっていうのは無責任かなと思うし、少なくとも、今の教育がなぜこうなっているかを知っているべきではあるような気がする。というわけで、最近は、往復二時間の通勤時に教育の歴史を聞きまくっている。楽しい。

教育の歴史 ー人間は何のために学ぶのか?ー【COTEN RADIO #197】 - YouTube

以下は、僕の感想も混じっているところもあるが基本的にはコテンラジオの要約である。正確なところはコテンラジオを聞いてほしい。

教育の起源

紀元前、文明が色々な地域で生まれて来た。裕福になり、宗教や芸術が発展していく中で教育も生まれた。確認されている最古の学校はシュメール人が作ったもののようだ。紀元前2000年前、メソポタミア文明でのことである。彼らが治めた土地はアジアとヨーロッパを結ぶ交易の拠点だったために商業が大いに栄えた。商業を滞りなく行うには読み書きそろばんが必須であったため、教育を国が行った。

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メソポタミア文明の位置。アジア-ヨーロッパ間ど真ん中!

話は飛んで紀元前300年頃の古代ギリシャへ。ここでは民主主義による政治が行われていたが、衆愚政治が起きてしまい、加えてペルシャまで侵攻してきた。混乱の中で人々は「本当に頭の良い人がリーダーにならないと国が滅びる」と考えたようだ。ソクラテスアリストテレスを経て、ここでも学校ができる。これをリュケイオンと呼んだが、ここでは国が画一的な教育を行ったというよりは、主に民間人によって、哲学や学問について真剣に議論していたようだ。

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万学の祖、アリストテレスアレクサンダー大王の家庭教師もしたよ!

教育の種類

シュメールとギリシャを見比べてみると、教育とはトップダウン型の教育とボトムアップ型の教育があると言えると思う。

教育方法 主体 方向 代表例
トップダウン 集約的 シュメール、西EUキリスト教*2、中国の科挙制度
ボトムアップ 民間 発散的 ギリシャ、西EUギルド制度*3、中国の諸子百家

上記を見ると、トップダウン型の教育を行っていたのは比較的安定した時代で、主に国家が必要な教育を国民に施すという形を取った。これとは反対に、国の分裂が起こったりして混乱した状態の中で、何を教育すべきか迷っていた時代にボトムアップ型の教育が行われた。トップダウン型の方が効率よく国家が必要な内容を国民に浸透させることができる一方で、判断を誤ったときの影響が大きい。ボトムアップ型の方が納得感のある教育ができそうな一方で、局所最適の罠に陥る可能性も大きい。良し悪しである。

では現在の日本はどうかというと、義務教育があり、国が教師を雇って教育を行っているのだからトップダウン型だと言っていいように思う。民間で教育を教える塾もあるが、これも「何を教えるべきか?」といったところまでは届いておらず、何を教えるかは国に委ねられている。これは、現在日本が比較的安定しており、教育が目指すべき大きな方向がある程度定まっているからだろう。*4

ではなぜ日本がトップダウン型教育を選択しているのか?それについては次回。

*1:結構、友人関係でトラブったりしているということは多い。特に女子。

*2:西ローマ帝国滅亡前のキリスト教による教育

*3:西ローマ帝国滅亡後のギルドによる教育。徒弟制度。

*4:なおこの「大きな方向」は多分に西洋の影響を受けているが、個人的には、この後中国、ロシア辺りが力を持ってきて世界情勢が混乱する中で、教育の流れも見直されるかも、とかは思っている。

ロシア史7 ロマノフ王朝最初期 1650年頃

さて前回、各界隈から御しやすいと見られたミハイル・ロマノフが1613年に即位した。さらにその父フィラレートはモスクワ総司教に就任し、親子で政治と宗教を動かすことになったが、特に目立った成果なく、ミハイル・ロマノフ1645年に死去。やはり動乱時代の傷跡が残っており、その秩序の回復に精一杯であった。

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ミハイル・ロマノフ。髭はロシアの誇り!

そのまま長男アレクセイ・ミハイロビッチが1645年、16歳で後を継ぐ。彼の治世は経済的にも宗教的にも波乱万丈であったが、彼が無能っていうよりは、側近に恵まれなかった男であったように思う。

まずは、彼のかつての家庭教師であった政府の高官ボリス・モロゾフを見ていこう。彼は典型的な会計家であったが、こういうタイプはえてして全てを数字で判断してしまい現場をよくわかっていないケースが多い。財務状況健全化のために公務員の給与を減らしたりしたのだが、その中でも塩への課税は民衆にとってかなりの不満だっただろう。それが1648年に塩一揆という大規模な一揆になってしまい、さらにモスクワ大火と呼ばれるかなり大きな火災まで起きてしまう。その責任を取らされ彼はモスクワを後にすることになった。

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生活必需品に課税してはいけない!塩一揆

さてこの一揆鎮圧のために戦ったのが士族と呼ばれる階級だった。その彼らからすれば、貴族や皇族、「力ある者」に不満を持つことは当然であろう。士族はゼムスキー・ソボールを要請し、この中で会議法典が成立した。この法典には士族たちの意向がかなり強く反映され、結果ロシアの農民はかなり不自由になってしまった。どういうことか。

ロシアの農民たちは中世においては割と自由だったようで、彼らには「秋のユーリの日」11/26の前後一週間において、移転する権利が認められていた。貴族、士族から借りている土地で農業をやるわけだが、「こりゃやっとられんばい」となったらば即移転できた。まあ借金があれば無理だったようなので、実際に移転した農民は僅かではあったようだが。
さて士族とは、ロシアにおいては「軍役を義務付けられる代わりに土地を持つことができる」という身分であったが、彼らが持つことができた土地は貴族のそれと比べて小さいものであった。自然、貴族の方がより有利な条件で農民を招くことができたので、農民の流出が起きてしまう「移転の権利」は士族にとっては大変厄介なものだった。これが会議法典で禁止となったのである。塩への課税〜塩一揆とその鎮圧の流れで「ニェット(いいえ)」とは言えなかった貴族皇族たちは移転の禁止を飲む他なかった。ロシアの農奴制の始まりである。

ところでゼムスキー・ソボールの主な構成員も士族であったが、会議法典の成立より、士族の最も大きな不満であった移転の権利がなくなったため、もはやこれを開く意味もなくなりゼムスキー・ソボールはこのあと徐々に開かれなくなっていく。貴族の力は相対的に弱くなり、アレクセイはこのとき官僚(プリカース)の数を3倍に増やし彼らを意のままに操った。アレクセイの治世でロシアの専制君主制が成ったとされている。

次に当時の宗教的な流れを見ていこう。ギリシャ正教の正統後継者を自負するロシア正教会にとって、正教会の教えを守ることはロシアにとって重要なことであったが、度重なる戦争等でポーランドからカトリックの教えが伝わったり、広い領土で土着の宗教と混ざり合ってしまったりして本来の教えからは少し違うものとなってしまっていた。さて、では「本来の教え」とはなんだろう、ということに当時の人達はぶち当たった。時は1652年。
彼らが考えた正しい教えは2つに別れた。一つは「昔の」ギリシャ正教会の教え、つまりモスクワに残されていた正教会の教科書に沿って儀式のやり方を修正するという考え方。もう一つは「現在の」ギリシャ正教会の教えで修正するという考え方。前者は指二本で十字を切るのに対し、後者は指三本で十字を切る、などの細かい違いがあった。
普通に考えたら、教科書があるのだからそれが本来の教えだと思うのだが、どうしてこのようなことが起きたのか?

実はこの時代には教科書とは別に、ギリシャ人修道士という別の模範があったのだ。彼らはギリシャからモスクワへ亡命しており、ロシアの文化的な背景から、結構な権威を持っていたのである。そしてギリシャ人修道士にはビザンツ帝国の再建という目論見があった。そんな彼らはモスクワ総主教を世界の正教会のトップにするために、モスクワ総主教ニーコンと協力し、現在の私たちの教えが正しいということとしたのである。

これには結構な反発があった。「ギリシャ人修道士が権威を持つっていったって、ビザンツ帝国がトルコに滅ぼされたのはもう200年以上前のことで、今となってはそれはトルコ式と言ってもいいんじゃないか?そのような、異教徒に汚染された教えは間違っているのでは?」というのが主だった反対理由だったが、ニコンはこれに激しい弾圧を加えた。このとき弾圧された、古い教科書を信じる人々を「古儀式派」と呼ぶ。当時のロシアの北の森には焼け落ちた小屋(ガリ)が点在したらしいが、これは古儀式派が弾圧を受け焼身自殺を図った跡だという。少数の迫害された宗教団体。このような組織は後々ヒジョーに危険な存在になることが多いが、ひとまずこの話は終わり、彼らはこのあとも歴史の影で生き続ける。

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ギリシャの坊主がなんぼのもんじゃい!二本指で十字を作るのが古儀式派である。

波乱万丈のアレクセイの治世だがまだまだ続く。

 

 

ロシア史6 動乱時代とロマノフ朝の成立 1600年頃

前回イヴァン4世の子、フョードル1世が残ったが、これが1598年に亡くなることで、リューリク朝が終わった。リューリク朝が終わったことによりただでさえ大変なのに、運が悪いことに遠く南米では火山の大噴火が起こる。その影響で極端な気温の低下、大凶作が起きてしまう。動乱時代の始まりである。

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フョードル1世が崩御し、目下の問題は次の皇帝を誰にするかということであった。ここでイヴァン4世が貴族たちを骨抜きにするために設立した会議、ゼムスキー・ソボールが開催され、皇帝選出を行うこととなり、ボリス・ゴドノフが選出される。庶民を交えたただの意見交換会だったゼムスキー・ソボールが、皇帝を選出する権力を持つよう、その性質を変えつつあったことが伺える。

皇帝に選出されたボリス・ゴドノフはイヴァン4世時代から信頼の厚かった部下であり、フョードル1世の時代も摂政として活躍した人物であった。が、さすがにリューリクの血筋を継いでいないのに皇帝になるのは貴族たちの反感を買ったし、さらにボリスが皇帝になったタイミングで記録的な凶作、飢饉が発生、次いで反乱も発生したためにその治世は上手くいかなかった。運のない男である。さらに1591年に事故死したフョードル1世の弟ドミトリーはボリスが殺したんじゃないか説が流れてしまい支持率がどん底に落ちる。

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ボリス・ゴドノフの肖像。運のない男である。

 

ここで1591年に8歳で事故死したはずのイヴァン4世の子、ドミトリーが生きていて、それは俺だと言い張る強者が出てくる。1603年、偽ツァーリ・ドミトリー一世である。彼が本当にあのドミトリーだと信じられたかどうかはともかく、ボリス反対派の神輿として担がれ、またロシア情勢への介入を企むポーランドなどの周辺国と、さらにロシア正教会規模縮小を目論む西のカトリックの思惑が絡み、結構な支持を受けた。さらにこのタイミングでボリスが崩御する。偽ドミトリーはこれはチャンスとばかり、皇帝でありボリスの息子でもあるフョードル2世を破り、モスクワ入城を果たした。ボリス・ゴドノフ、最後まで運の悪い男である。

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偽ドミトリー。頭は良かったらしい。

このときポーランドが裏で糸を引いているあたり、イヴァン4世が起こした戦争により対外的な悪い影響がモロに出ているところである。しかし歴史上、偽の権力者が出てくるというのは珍しくないが、ここまで勢力を伸ばしたヤツは珍しい。時代の流れに乗った、大した男である。ドミトリー一世の治世は実は一年も持たなかったが、この後一攫千金を狙って偽ドミトリー二世、偽ピョートルが出てくるあたり、ロシアらしいところである。

さて偽ドミトリーをポーランドが支援した、と先ほど書いたが、この時期ポーランドは動乱時代で弱体化したロシアをボコボコにしていた。なんとこのときポーランドはモスクワ占領までやってのけている。ロシア史終わりそうである。だが、このときロシアの民衆は義勇軍を結成しポーランドに対し独立戦争を仕掛けたのである。義勇軍のリーダーの一人クジマ・ミー人はただの肉屋だったというのだから驚きである。1612年にポーランドからモスクワを取り戻し、この独立戦争に勝利した11月4日は今でも国民団結の日として祝されているらしい。

再度ゼムスキー・ソボールが開催される。ここでの議題もとにかく皇帝を決めたいのであったが、ここで選出されたのは、リューリク朝の血筋をうすーーーく受け継ぎ、それほど有能ではなく、その父がボリス・ゴドノフに失脚させられてかわいそうという経歴を持っていた17歳の男、ミハイル・ロマノフという青年であった。結局のところ貴族からすると御しやすいとみられたであろうこの男から始まったロマノフ王朝であったが、これが意外と長く続くんである。

ロシア史5 「雷帝」イヴァン4世 1533年頃

前回のイヴァン3世がロシアを作った王だとすれば、その孫にあたるイヴァン4世はロシアをさらに大きくした王だと言えるだろう。混乱も起こしたが。

 

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イヴァン4世。この王笏で殴られたらなかなか痛そうである(意味深)

 

イヴァン四世は父、ヴァシリー三世が亡くなり1533年に3歳で即位し、1549年から親政を開始。祖父イヴァン3世が始めた専制君主制への移行をより強める、というのが彼の政治方針だった。1549年、それまで専制的だった貴族の地位低下、及び士族への権限移譲を狙う身分制会議ゼムスキー・ソボールを開始。さらに常備軍である親衛隊、ストレリツィを新設。ツァーリの力を向上させた。また、このとき東方への進出も実施。カザン・ハン国、アストラハン・ハン国、シビル・ハン国(シベリアの語源)へも侵攻する。1552年。当時22歳、イケイケである。

だが1553年に大病を患い、それがきっかけで起こった跡継ぎ争い、つまり自分が死んだ後を誰がやるかというあたりから周囲とギクシャクし始める。結局これは完治し(この後を考えると完治しない方がよかったような気もするが。。)持ち直すも、跡継ぎ争いのときに反発的だった貴族と司教に疑いの念を抱き始める。

1553年8月、リヴォニア戦争勃発。バルト海への進出を目論んだイヴァン4世がリヴォニアへ侵攻した。取るに足らない小国だったのであるが、リヴォニアが他国へ泣きついたのが運の尽き。当時新興国であったロシアを危険と感じたリトアニアポーランド同君連合、スウェーデンデンマークが介入。大連合と戦う羽目になってしまったのである(なおリヴォニアは連合側に吸収され、なくなった)。当時29歳。若さゆえの過ちか。

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バルト海の勢力が一堂に会してロシアを迎え撃つ。

kagawatakaakiのブログ : (1254) ロシアについて 17 「イヴァン4世(雷帝)」 2/3

ロシア史あるある、「海が欲しくて近づいたら大変なことになったでござる」の第一弾である。この戦争は長期化してしまい20年以上続いてしまうことになる。

ところでこのイヴァン4世の趣味は幼少期より、鶏の首を刎ねたり犬を城から落として殺したりするという猟奇的なものだったようで、苛烈な性格だったようだ。これを宥め、憎悪や敵意、怒りをコントロールしていたのがイヴァン4世の最愛の妻、アナスタシアであった。が、1560年に病死してしまう。イヴァン4世30歳のときであった。この死には当時イヴァン4世と敵対関係にあった貴族による毒殺の噂が流れており、彼がこれを信じてしまったために暴走が始まる。

1564年、突如退位宣言を行い、郊外のアレクサンドロフに引きこもる。引きこもりが一ヶ月を過ぎたとき、モスクワに手紙が届く。そこには自分に不信を抱く貴族と聖職者への批判、民衆への愛情、そして自分への絶対的権力を認めるよう書いてあった。これを知った民衆は決起し貴族、聖職者にツァーリへの絶対的権力を認めさせた。イヴァン4世34歳のときである。

1565年、オプリーチニキという新たな身分が生まれた。全国をツァーリ直轄領とそれ以外に分け、直轄領を治める者のことを指す。オプリーチニキには強い権限が与えられ、ツァーリからの処刑命令の実施を行うことになり、ついでに富裕層への略奪も行った。周囲からは大変不評であったが、反対派は皆殺しだったので問題はなかった。

これにより精神的錯乱状態と絶対的権力、これを支える特権的部隊とこれに略奪される国民という満貫8000点状態が完成してしまい、この後は戦争と虐殺を繰り替えしてしまうようになる。そして1581年、些細なことで怒りに我を失ったイヴァン4世は自分の子共とその妻をその王笏にて撲殺する、という大惨事へと行き着く。その後は罪の意識に苦しみ、1584年に崩御した。

跡をついだのは三男フョードル、彼は知的障碍者であった。その運命やいかに。

ロシア史4 イヴァン3世 1480年頃

前回、タタールのくびきの話まで行ったが、ここから一気に200年ほどジャンプする。この間にも支配下にあるキエフ大公国の、モンゴル親分配下の内輪揉めでどこが覇権を握るのかというような歴史があり、それはそれで面白いのだが。

タタールのくびきによりモンゴル支配下に置かれたロシア(っていうか、キエフ、ノブゴロド、モスクワあたり。このとき多分、まだロシアという概念はないんじゃないかと思う)だったが1450年くらいまでは血で血を洗う、というか目をくり抜きくり抜かれる(摘眼刑。この辺はビザンツ帝国のやり方がよく真似されている。)でごっつい内戦を行っていた。この内戦を終わらせ、国内を統一したのがイヴァン3世であった。とりわけノブゴロドの併合は1471年〜1478年まで続いたというのだから大仕事だったわけだ。

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イヴァン3世。ロシア人らしい立派な髭がステキである。

イヴァン3世 - Wikipedia

彼は内戦を終わらせロシアを統一したが、このときのロシアは少数の貴族が国の方向を決める貴族制を取っていた。彼にとってこれは邪魔だったらしく、まずはこの貴族会議を機能させなくした。めったやたらに自分の配下を会議に送り込んで混乱させ何も決められなくするもいう戦術を取ったのだが、これがうまくいき議会は何もできなくなってしまった。

歴史上、上手い人はこういうことをやるのがうまい。つまり相手を無理やり押さえつけるということはあまりせずに、あくまで相手の文脈で自分のやりたいようにやるのである。こうして実権を握ったところから、ロシアの貴族制から専制君主制への移行が始まる。専制君主制を象徴するかのように、彼は「ツァーリ」と名乗った。ツァーリの語源はラテン語カエサル(Caesar)であり、ちなみにドイツ語ではカイザーと発音する。日本語では皇帝と訳されることが多い。

さてツァーリ・イヴァン三世は国内統一の後、モンゴル人に喧嘩を売っていく。貢納金の支払停止である。ここからモンゴル帝国からの独立へと繋がるのだが、これがモンゴル帝国には止められなかった。10万の兵を用いて脅しをかけるも戦闘には至らず、モンゴル帝国は引き下がることとなった。1480年のことであった。なおモンゴル帝国はこのあと分裂し、弱体化していく。

さて、このときにはビザンツ帝国はもう滅亡していたわけだが(滅亡に等しい降参ビザンツ帝国滅亡。1453年。)、この末裔がまだ生きていた。この娘、ゾエ・パライロゴスと結婚することにより、彼らロシアはビザンツ帝国の遺産を引き継ぎ、「第三のローマ」を自称していくことになる。ちゅーてもこの呼び方はいろんな国が主張している模様である。その主張する国の多いこと。

 

第三のローマ - Wikipedia

 

ビザンツ帝国滅亡の影響力の強さが伺える。なおこのビザンツ帝国の継承者は双頭の鷲を掲げがちであるが、これはビザンツ帝国の国章だったかららしい。

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双頭の鷲。ビザンツ的には、東西のローマを統べるという意味らしい。

こうして徐々に大きくなっていく彼らはローマ帝国の継承者としての地位を確立できるか。次回はそんな彼らリューリク朝が滅亡するところを話す。