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ロシア史5 「雷帝」イヴァン4世 1533年頃

前回のイヴァン3世がロシアを作った王だとすれば、その孫にあたるイヴァン4世はロシアをさらに大きくした王だと言えるだろう。混乱も起こしたが。

 

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イヴァン4世。この王笏で殴られたらなかなか痛そうである(意味深)

 

イヴァン四世は父、ヴァシリー三世が亡くなり1533年に3歳で即位し、1549年から親政を開始。祖父イヴァン3世が始めた専制君主制への移行をより強める、というのが彼の政治方針だった。1549年、それまで専制的だった貴族の地位低下、及び士族への権限移譲を狙う身分制会議ゼムスキー・ソボールを開始。さらに常備軍である親衛隊、ストレリツィを新設。ツァーリの力を向上させた。また、このとき東方への進出も実施。カザン・ハン国、アストラハン・ハン国、シビル・ハン国(シベリアの語源)へも侵攻する。1552年。当時22歳、イケイケである。

だが1553年に大病を患い、それがきっかけで起こった跡継ぎ争い、つまり自分が死んだ後を誰がやるかというあたりから周囲とギクシャクし始める。結局これは完治し(この後を考えると完治しない方がよかったような気もするが。。)持ち直すも、跡継ぎ争いのときに反発的だった貴族と司教に疑いの念を抱き始める。

1553年8月、リヴォニア戦争勃発。バルト海への進出を目論んだイヴァン4世がリヴォニアへ侵攻した。取るに足らない小国だったのであるが、リヴォニアが他国へ泣きついたのが運の尽き。当時新興国であったロシアを危険と感じたリトアニアポーランド同君連合、スウェーデンデンマークが介入。大連合と戦う羽目になってしまったのである(なおリヴォニアは連合側に吸収され、なくなった)。当時29歳。若さゆえの過ちか。

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バルト海の勢力が一堂に会してロシアを迎え撃つ。

kagawatakaakiのブログ : (1254) ロシアについて 17 「イヴァン4世(雷帝)」 2/3

ロシア史あるある、「海が欲しくて近づいたら大変なことになったでござる」の第一弾である。この戦争は長期化してしまい20年以上続いてしまうことになる。

ところでこのイヴァン4世の趣味は幼少期より、鶏の首を刎ねたり犬を城から落として殺したりするという猟奇的なものだったようで、苛烈な性格だったようだ。これを宥め、憎悪や敵意、怒りをコントロールしていたのがイヴァン4世の最愛の妻、アナスタシアであった。が、1560年に病死してしまう。イヴァン4世30歳のときであった。この死には当時イヴァン4世と敵対関係にあった貴族による毒殺の噂が流れており、彼がこれを信じてしまったために暴走が始まる。

1564年、突如退位宣言を行い、郊外のアレクサンドロフに引きこもる。引きこもりが一ヶ月を過ぎたとき、モスクワに手紙が届く。そこには自分に不信を抱く貴族と聖職者への批判、民衆への愛情、そして自分への絶対的権力を認めるよう書いてあった。これを知った民衆は決起し貴族、聖職者にツァーリへの絶対的権力を認めさせた。イヴァン4世34歳のときである。

1565年、オプリーチニキという新たな身分が生まれた。全国をツァーリ直轄領とそれ以外に分け、直轄領を治める者のことを指す。オプリーチニキには強い権限が与えられ、ツァーリからの処刑命令の実施を行うことになり、ついでに富裕層への略奪も行った。周囲からは大変不評であったが、反対派は皆殺しだったので問題はなかった。

これにより精神的錯乱状態と絶対的権力、これを支える特権的部隊とこれに略奪される国民という満貫8000点状態が完成してしまい、この後は戦争と虐殺を繰り替えしてしまうようになる。そして1581年、些細なことで怒りに我を失ったイヴァン4世は自分の子共とその妻をその王笏にて撲殺する、という大惨事へと行き着く。その後は罪の意識に苦しみ、1584年に崩御した。

跡をついだのは三男フョードル、彼は知的障碍者であった。その運命やいかに。